東西ドイツそれぞれで国家が生まれると、東ベルリンは(東ドイツを統治していた)旧ドイツ民主共和国の首都となったが、西ベルリンは地理的に西ドイツと離れていたことから、形式上「(西ドイツを統治していた)ドイツ連邦共和国民が暮らす、米・英・仏3か国の信託統治領」となり、西ドイツ領とはならなかった。
そのため、ドイツ連邦共和国の航空会社であるルフトハンザの西ベルリンの空港への乗り入れが禁止となるなどの制限はあったが、事実上はドイツ連邦共和国が実効支配する飛び地であった。
西ベルリンと西ドイツとの往来は、指定されたアウトバーン、直通列車(東ドイツ領内では国境駅以外停まらない回廊列車)と空路により可能であった。東ドイツを横切る際の安全は協定で保証されたが、上記のように、西ベルリンに入れる航空機は米・英・仏のものに限られ、西ドイツのルフトハンザは入れなかった。
また東西ベルリン間は往来が可能で、通行可能な道路が数十あったほか、UバーンやSバーンなど地下鉄や近郊電車は両方を通って普通に運行されており、1950年代には東に住んで西に出勤する者や、西に住んで東に出勤する者が数万人にのぼっていた。
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しかしこの往来の自由さゆえ、毎年数万から数十万人の東ドイツ国民がベルリン経由で西ドイツに大量流出した。特に自営農民や技術者の流出は東ドイツ経済に打撃を与えた。こうして西側から東ドイツを守るため、東西ベルリンの交通を遮断しベルリンの壁が建設されることになる。実質的には、西ベルリンを封鎖する壁というより、東ドイツを外界から遮断する壁といえる。
西ドイツ・西ベルリン間の道路上の国境検問所は、A(アルファ)・B(ブラボー)・C(チャーリー)があり、Cは「チェックポイント・チャーリー」の別名で知られていた。